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カリン・ピサリコヴァー展「Still Life」(7/1~28、チェコセンター)

今回の展覧会ではチェコ出身の芸術家であり、学芸員でもあるカリン・ピサリコヴァー氏の新しいプロジェクトをご覧いただきます。ピサリコヴァー氏は今年で来日8年めを迎える創作芸術家でもあります。 彼女は作品において、日常生活に入り混じる自然の中で生きる人間について、超存在的な疑問を投げかけてきました。日常生活のシーンを題材にした作品は可視化された俳句のような効果をもたらしてくれます。作品を前にした者は、自分自身の独自な解釈や自分の中で沸き起こる物語作品へと誘われることでしょう。ピサリコヴァー氏は最近の作品の中で、「自然の一部としての人間」というテーマをしばしば取り上げてきました。

会期:7月1日~28日 10時~17時(土、日、祝日を除く)

場所:チェコ共和国大使館内 チェコセンター 展示室

   (150-0012 東京都渋谷区広尾2-16-14)

オープニング:7月1日(金)19時~(18時半開場)

 


 

Still Life

この美しく驚きに満ちた土地での8年に及ぶ生活期間が過ぎた今でも、自然に対して日本人がもっている畏敬の念と感受性は驚愕に値し、そして魅了して やみません。ありふれた経験でも、地理的、文化的な差異のおかげで魔法がかかります。彼女にとって森の中の彫像を訪問することはまさにそれでした―おおさ わの石仏の 森&ふれあい石像の里―富山市から約40分ほどのところです。ここを訪れた者は、石化した森の立像の群のこと以外何も考えられなくなります。

実物大の約800体の像が神通川を見下ろしています。羅漢像という仏陀の弟子の像500体で埋め尽くされ、それに何百体ものの80年代の服装をした 市民の石像が加わります。おそらく土地の所有者の古河睦雄(ふるかわむつお)の友人や親戚をモデルにしたものでしょう。この不動で不変の像の群れは半円の 広い段々になった大地に設置されていますが、急成長する周りの捕食的な自然によってだんだん吸収されていっています。人々が土地に与えようと努め、調節し てきたものを超えて、混沌が支配をし始めています。

写真では人々の髪が象徴的に用いられています。髪自身の絶え間ない成長によって、私たちは動物や植物と同様に、野生性とつながりがあるということが 示されてます。私たちはそれをそれを飼いならす必要があるものとみなしています。しかし、不変の理が支配する世界では、生命はやがて欠けていくものだとい うことを、私たちは経験から知っています。このことについて、おとぎ話でも出てきますが、不老不死の欲望は人間を破滅へと導く、ということがわかります。 ですが、未来は楽観的なものに感じられます。Still Lifeという名称は言葉遊びができ、静物、せいぶつ、生物と、動かないものの中に生き物の音を見出せるのです。

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今回のプロジェクト「Still Life」は、展覧会「もくてき」と自由につながっていて、「自然」を求める人間をテーマにしています。その「自然」というのは、調節され、予測不可能な ものや野性的な側面が取り除かれています。自然を名残を私たちに感じさせてくれるのは、日常空間では、人工の大理石、芝生の代わりの絨毯、木目の描かれた リノリウムの床、電気で動く偽物の暖炉などです。真の自然に私たちは魅せられていますが、同時に私たちは自然の力を畏れてもいます。なぜならば、おそらく 自然は、コントロールすることがいかに難しいかも含めて、私たちの中にある本能的な面を示してくるからです。

カリン・ピサリコヴァー

 


 

「超石像主義の芸術」

 

 人里離れた山奥に、突如として現れる石像の群れ。野外美術館でもなければ宗教施設でもない、ぱっとみて何の目的で作られたのかも分からない、石像 の里である。こうした風景を見ると、日本人はよく「シュールだなあ」などと言う。これは言うまでもなく「シュールレアリスム」から来ているのだが、最近は ほぼ元の単語が忘れられ、日本語の形容詞として定着しているようだ。1920年代に日本に紹介された時点では「超現実主義」と訳されていたが、日常語とし ては「非現実的」という意味で使われているのである。

  しかし日本を旅してみればわかるように、これは決して富山の山奥だけの話ではない。まだ子供の頃、わたしは東海道線の大船駅に電車が近づくと見 える巨大な観音像に、一種と独特の感情をもっていた。信仰心とも畏怖の感情とも違う、わくわくするような驚きの感覚を覚えているが、それを今風の表現にす れば「シュールな観音様」になるのかもしれない。現在でも巨大仏や巨大像が作り出す不思議な光景は、全国的に知られている。像の種類はさまざまだが、いず れも「なぜこんなところにこれが」と誰もが首を傾げる点が共通している。

   西欧的な景観概念からすればありえないような光景がどんどん生まれる理由には、日本における都市再開発の無計画性や公共景観にたいする意識の 低さがあるに違いない。だがわたしはそれとは別に、石像には、それ自体にもともと備わっている「シュール性」があるようにも思うのだ。たとえば広場に建立 された銅像には、どこか奇妙なところがある。

  シュールレアリスムの代表的作品『ナジャ』には、パリのヴィリエ広場に建つ石像の写真がある。ナジャにいろいろと忠告をしたというアンリ・ベッ ク(Henry Becque)という劇作家の像なのだが、著者のアンドレ・ブルトンは「彼女がヴィリエ広場にあるベックの胸像に魅かれており、その表情をとても好んでい たために」、助言を得たということは理解できたと書いている。1920年代にベックはすでに亡くなっていたから、署名入りの助言を与えることなどありえな い。しかし石像をじっと見つめていると、助言を与えることもあるのではないか、そんな気もしてくる。なぜなら、石像は、もしこういう言い方ができるなら ば、一種の「社会的身体」として公共の場にたち、生きている人間の話を聞き、必要な場合にはあれこれと忠告をするものだからである。

   自分の身体を社会的空間に配置することを通じて、映像やパフォーマンスにおける独自の表現を続けてきたカリン・ピサリコヴァにとって、おそら くこのことは自明である。石像はそこに「在る」のではなく、「いる」。社会的な身体としてそこに「いる」こと、そのようにして人間を見守っているという役 割は、路傍のお地蔵さんからヒューマノイドロボットまで、シュールだからこそリアルな、ひとつの文化の形でもあるだろう。ユーモアのなかに歴史への配慮が 隠されている彼女の作品を見ていると、ともに美術の山道を分け入りたくなる。きっと石像になったブルトンが出てきて驚かされるだろう、とそんな気がするの である。

港千尋 (多摩美術大学 教授)